☆ 野田淳子コンサート通信 ☆
「歩きつづけて」bP8
(2003年4月発行)

時代が求める野田さんの歌

弁護士 山ア浩一

野田淳子さんとの出会いは、たまたま野田さんがラジオに出演されていたのをタクシーで聞いていて、声の美しさと話の内容に感動して、CDを買おうと探したのに見つからなくて、コンサート会場から連絡先を聞いて、電話をしたら野田さんご本人が出られたということに始まります。それからは、いわゆる「追っかけ」になり汚れた魂を野田さんに清めていただいています。

野田さんというと、誰でもが歌とそれに込められたメッセージということを思い浮かべますよね。歌とメッセージということに関して最近3つの出来事がありました。

まずは、9・11の直後にアメリカではラジオ局にジョン・レノンの「イマジン」へのリクエストが激増したこと。2つ目は、フォーククルセダーズが再結成されて、発売されたCDの中に宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩に曲をつけたものがあるのに気付いた直後、たまたま聞いた井上陽水のアルバムの中にある「わかんない」が同じく「雨にも負けず」をテーマにしていると気付いたこと。そして3つ目は、スマップの大ヒットの「世界に一つだけの花」が、「歩きつづけて」と同じテーマであることです。

こうしてみると、人々の心に残る歌は、その中に何かのテーマを持っていて、芸術性と調和していること、各時代の社会情勢において人々の心の渇きや疼きに応える歌であることかなと感じました。

また、「戦場のピアニスト」を見て、主人公の命が助かったのは、徹底した不戦の態度や運に加えて、主人公のピアノ演奏が敵軍の将校の心に、人の命を助けるという気持ちを呼び覚まさせたという奇跡に他ならないということも重く心に残りました。

何を言いたいかと言うと、野田さんは、生来の性格の故か、謙遜したり、あまり面白くはないけどギャグをいったりして、そうは感じさせないけれども、実は、野田さんが日々やっていることは、こういう大変なことであって、スマップもジョン・レノンも、井上陽水も、フォーククルセダーズも野田さんが地道にしていることを、少し派手にしているだけのことなんだなということです。

そういうわけで、ぼくは今夜も野田さんの偉さを感じながら、CDを聴くのです。

 

<シリーズ> 野田淳子と私
東京コンサート「第2幕」

野田淳子東京コンサート実行委員 大野 裕

2000年9月4日(月)。東京芸術劇場小ホール。観客約200名。

歌手野田淳子の東京での初コンサートは、大好評のうちに幕を閉じた。東京ではほぼ無名に近い野田淳子の歌に聴衆は酔った。私はそれ以上に酔った。酔った勢いで「来年再びこの東京で、もっとデッカイコンサートを決行するぞ!」と吠えた。当時電通勤務で、野田さんとは同期入社の川田マリ子さんがすかさず「私も!」と合いの手を入れた。東京での初コンサートをしっかりと支えてきた井筒百子さんは、当然の如く呼応した。野田さんの高校時代の同級生、池浩さんが加わり、元電通でやはり野田さんの同期だった須田淳子さんが馳せ参じ、関西時代からの野田淳子ファンで、目下東京に単身赴任中の本窪田さん、一村さん、若井さんの強力トリオが合流、最強の「野田淳子東京コンサート実行委員会」が生まれた。

2001年11月16日(金)。abc会館。観客約350名。

手探りで始まった東京コンサートだったが、何とか成功に漕ぎつけた。若干の剰余金は、関西の歌手が東京でお世話になった感謝のしるしに、日赤を通じて三宅島の人々にカンパをした。

1年2ヶ月にわたる準備期間。打ち合わせ。意見の食い違い。未知との遭遇の数々。コンサートが終わって、「達成感」とそれ以上の「脱力感」。コンサートから少し距離をおいて冬眠に入る。

気がつくとあれから1年が過ぎてしまっていた。

実行委員会のメンバーで、私の定年のお祝いをしてくれるという。野田さんも京都からわざわざ駆けつけてくれるそうな。感謝で胸がいっぱいになる。

2003年1月9日(木)。ベトナム・サイゴン料理店「ミュン本郷店」。参加者7名。

宴たけなわで、いい気分になったまさにそのとき、井筒百子さんが突然つぶやいた。「また今年やろうよ!」絶妙のタイミングに思わず「やろう、やろう!」と軽く応えてしまった。つられて全員が「やろう、やろう!」の大合唱。銀座での二次会で川田マリ子さんも合流。かくて東京コンサート第二幕目の火蓋が切られたのだった。

3月21日、野田さんも交えて、第一回目の実行委員会が東京ステーションホテルで開催。実行委員長に井筒百子さんが、事務局長に私が選出された。会場は前回と同じabc会館をすでに確保。今回はもう少し実行委員を増やしたい。

2003年10月10日(金)。abc会館。観客400人・・・。

透きとおるような高音部に、たくましく響く低音部が加わった、新しい野田淳子を聴いてほしい。

 

元気になるお守り 〜私の宝物〜

野田淳子

歌手生活、33年目の4月です。重ねたコンサート回数は、2500回を超えます。詳しくちゃんと計算してみようと思ってます。果たして何回でしょう?

私にしてはめずらしく、演奏日誌はこの年月、一回も欠けることなく、曲目や会場、時には着ていた服も、共演者も全部書いてあります。日誌は43冊目になりました。

体調、声など、最高の時でもステージが良くなかったり、のどの調子が悪くても大変好評だったり、演奏って、不思議です。

それで、どうしても自分を元気づける為お守り的なものを持ちたくなります。

おじが83才で亡くなって、形見の時計を頂きました。おじは無口な人でしたが「お前を誇りに思う」と言ってくれた大切な人でした。男物でしたがベルトを変えて、演奏の時は必ず身につけていました。おじが守ってくれている気がしました。出がけに見つからないと大騒ぎして、なんとか探し出してから出かけていました。

昨年、京都の祇園のあたりで、ハイヒールで全速力で駆けていて、お巡りさんが「大丈夫ですか?」と飛んで来る位、ひどい転び方をしました。その時、海外で買った時計を左手にしていたのですが、ガラスが割れ時計も止まってしまいました。私自身はあちこち痛みましたが、骨折も捻挫もなく、かすり傷と打ち身くらいで奇跡的でした。

その後はこの時計を修理して、これがお守り。おじの時計は、ケースの中で休憩しています。

両方とも、大切な私の宝物です。

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